第1章 数を数える発明 — 刻み目と対応づけ

いまの世界

いまから4万年ほど前。あなたは、南の大地(いまのアフリカ南部)で暮らす狩猟採集の群れの若者だ。

あなたたちが知っていることを確かめておこう。火を熾し、保つことができる。石を打ち欠いて刃物を作り、骨を削って針や錐を作れる。獣の通り道を読み、季節ごとに実る木の実の場所を覚えている。言葉を話し、歌い、死者を悼む。腕輪に使う貝殻に穴を開け、赤い顔料で体や物に印をつける。

一方で、あなたたちの世界にないものも確かめておく。文字はない。農耕も家畜もない。そして——これがこの章の主役だが——「数」を数え上げる決まった方法がない。言葉には「ひとつ」「ふたつ」、そしてせいぜい「いくつか」「たくさん」にあたるものがあるだけだ。それで日々の暮らしは、ほとんど困らない。

ほとんどは。

場面

(以下の場面は想像である。ただし、この時代にこの土地で人びとが骨に刻み目を刻んでいたことは、実際に出土した骨からわかっている——章末「その後」を見よ。)

乾季の始まり。群れの狩人たちが、大きな獲物の群れを追って遠くの谷へ発つことになった。あなたは足を痛めていて留守番だ。長老があなたを呼ぶ。

「狩人たちは、月がふた回り満ちるより前には戻ると言った。だが、もし戻らなければ、我々は水場を捨てて彼らを探しに行かねばならん。発ってから何日経ったかを、確かに知っておく必要がある」

あなたは請け合った。だが夜、火のそばで考えて、背筋が冷たくなる。

三日や四日なら、指を折って覚えていられる。だが「月がふた回り」は、指では足りないほど長い。「たくさんの日」——あなたたちの言葉では、そこから先はぜんぶ「たくさん」だ。十日目と二十日目と三十日目は、頭の中でどう区別すればいい? 毎朝「昨日までの日々」を思い出そうとしても、同じような朝が続けば、記憶は必ず溶けて混ざる。一日数え違えるだけで、群れは早すぎる捜索に出て水場を失うか、遅すぎて狩人たちを見捨てることになるかもしれない。

問い

あなたは長老の助手として、この役目を果たさなければならない。

「たくさん」としか言えないほど多くの日々を、一日も違えず数えておく方法を、いまあなたの手元にあるもの——石の刃、骨、革紐、貝殻、顔料——だけで作れるだろうか?

言葉に大きな数がないこと、文字がないことを思い出してほしい。「30」と書き留めることも、「三十日目」と唱えて覚えることもできない。

考えてから先へ進もう。 ここで一度、本を置いて考えてほしい。


ヒント 1

長老は、あなたが困っているのを見てこう言った(この台詞は想像である)。

「日々を覚えようとするな。日々は、おまえの頭の外に置け

体の外にあるものは、眠っても、忘れても、消えない。あなたが顔料で岩に印をつけるとき、その印は翌朝もそこにある。


ヒント 2

もうひとつ。数える相手(日々)は、ひとつずつ順にやってくる。朝は一度にふたつ来ない。

だとすれば、朝がひとつ来るたびに、消えない何かをひとつ作るとしたら?


当時の推論

あなたは、狩人たちが発った朝、獣の骨をひとつ拾い、石の刃で刻み目をひとつ入れる。

次の朝、もうひとつ。その次の朝、もうひとつ。

やっていることは、これだけだ。朝ひとつに、刻み目ひとつ。 言葉はいらない。大きな数の名前もいらない。骨の上の刻み目の列が、過ぎた日々の列と、ひとつ残らず対になっている。

この骨のすごさを、落ち着いて確かめよう。

第一に、これは記憶に勝る。 あなたが数え違えない限り(そして「今朝の分は刻んだか」さえ間違えなければ)、骨は日々を一日も取りこぼさない。熱を出して一日寝込んでも、隣で誰かが代わりに刻めばよい。記憶は人に渡せないが、骨は渡せる。

第二に、これは比べられる。 長老が言った「月がふた回り」。あなたは月が満ちてから次に満ちるまで、別の骨に同じやり方で刻み目を入れてみる。ふた回り分できたその骨と、日々の骨とを並べ、刻み目をひとつずつ突き合わせていけば——どちらが多いかがわかる。約束の日が来たかどうかを、「数の名前」を一度も口にせずに判定できるのだ。

第三に——ここが飛躍だが——この骨は、日々でなくてもよい。 谷へ発った狩人ひとりにつき刻み目をひとつ入れた骨を作っておけば、戻ってきた狩人をひとりずつ刻み目と突き合わせて、全員が戻ったかを確かめられる。日々の骨と狩人の骨、干した肉の骨。刻むものが何であっても、骨の上ではぜんぶ同じ「刻み目の列」になる。

……この最後の一歩を、あなたは奇妙に感じないだろうか。過ぎていく朝と、生きて歩く狩人と、干した肉。似ても似つかないものたちが、骨の上ではまったく同じ姿になる。「七つの朝」と「七人の狩人」に共通する何か——それ自体はどこにも触れないし、見えもしないもの——を、あなたの刻み目はいつのまにか掴んでいる。

のちの人類がそれに「数」という名前を与えるまで、ここから数万年かかる。だが骨に刻んだあなたは、名前より先に、実物を手にしている。

刻みながら気づくこと

十数日も刻むと、あなたは実務上の不便に気づくはずだ。刻み目がずらりと並ぶと、一目では多さがわからない。三つ四つまでの刻み目はぱっと見で区別がつくのに、それを超えると、結局ひとつずつ突き合わせて確かめるしかない。

そこであなたは、刻み目をひとかたまりずつ区切って刻むことを思いつくかもしれない——たとえば片手の指と同じ数ずつ、間隔を空けて。かたまりが「いくつか」なら、まだ一目でわかる。実際、後の時代の刻み目骨には、かたまりに区切って刻まれたものが見つかっている(章末)。ひとつずつ数えるしかなかった世界に、「まとめて扱う」という第二の発明が芽生えている。この芽が育った先の話は、この巻の後の章でする。

わかったこと

次章では、この骨で「月」を数える。周期というものの発見だ。

その後

現代の言葉で言えば、この章であなたが使ったのは一対一対応の原理であり、それこそが「個数(基数)」という概念の土台である。集合論を作った19世紀末の数学者たちが無限を比べるときに立ち返ったのも、まさにこの「ひとつずつ突き合わせる」操作だった。また「三つ四つまでは一目でわかる」という感覚は、現代の認知科学でスービタイジングと呼ばれ、ヒトが生得的に持つ数の把握はおよそ4までとされる——だからこそ、それを超える数には刻み目という道具が要った。

史実の留保。この章の場面・人物・台詞はすべて想像である。確かなのは物証だけだ:

ただし、刻み目が本当に「数えた」跡なのかは慎重な議論がある。装飾や、刃を試した傷の可能性を排除するのは難しく、考古学者は刻み目の断面や刻む道具の違いを顕微鏡で調べて「別々の機会に刻み足された」ことを示そうとしてきた。レボンボの骨については複数の道具で刻まれたとの分析があり、一度に装飾として刻まれたのではなく、時をおいて刻み足された——つまり何かを記録していた——可能性を支持している。とはいえ「何を」数えたか(日々か、獲物か、月か)は、わからない。この章が「日数」を選んだのは、ひとつの想像である。

出典