『未然欄』第3章
十月四日、金曜日。朝から雨が降っていた。前夜のラジオの予報の通りだった。皆見稔は仮設事務所の壁に貼られた本日の配置表で、自分の名前の横に「屋内・入力班」とあるのを確かめた。雨天時は戸別訪問を中止し、既に回収済みの調査票をシステムに入力する作業に人員を回す。毎年、この時期に何度かある措置だった。傘立てには色違いの傘が七本並び、事務所の床には泥の混じった水滴の跡が点々と続いていた。
事務所の奥、長机に並んだ端末は八台あり、七台がすでに埋まっていた。皆見は空いていた一台に座った。左に未処理の調査票の束、右に処理済みのトレイ。手順は決まっていた。受理番号を打ち込み、世帯主氏名と住所を住民基本台帳と照合し、回答内容を転記する。エラーが出なければ次へ進む。それだけの作業だった。
隣の島では、今年から入ったという学生アルバイトが二人、係長から入力手順の説明を受けていた。「エラーが出たら赤いボタンは押さないで、まず保留にして」という声が聞こえた。皆見はその説明を、自分が四年前に聞いたのと同じ文言だと思いながら、手元の束をめくった。
「今日は何件回せそう」 「わかりません。束次第です」 「相変わらず、愛想のない返事」
向かいの端末で同僚の女性職員が笑い、自分の分の束を引き寄せた。皆見は一枚目を開き、受理番号を打ち込んだ。画面が緑に変わり、次へ進んだ。二枚目、三枚目。同じ動作の繰り返しだった。未然欄が空欄の票は転記も早い。「特に」「なし」「わからない」。短い回答は数秒で処理が終わる。一枚は未然欄に「猫を飼う人生」とだけ書かれていて、皆見はその四文字をそのまま打ち込み、次へ送った。誰の答えにも意見は挟まない。それが仕事だった。
受理番号八九一番は世帯主の欄に「同上」とだけ記され、住所は前の一枚と同じ集合住宅の別の部屋番号だった。エラーは出なかった。受理番号八九二番は未然欄に「特になし」と書かれていて、皆見はその字を一瞬見つめてから、いつもより慎重に転記した。字の癖が誰かに似ているということはなかった。似ているはずもない。それでも皆見は、この欄を空欄同然に埋める人間が自分だけではないことを、毎年この作業のたびに思い知らされた。
十時の休憩で、皆見は給湯室で麦茶を注いだ。窓の外の駐車場は水たまりだらけで、傘を差した職員が数人、車から段ボール箱を運んでいた。休憩室のテレビは音量を絞ったニュースを流していて、誰も見ていなかった。皆見は麦茶を半分残したまま席に戻った。
「今日の束、市内の回収箱の分も混ざってますよね」 「駅前と支所と、あと商店街のと。担当者不明でこっちに回ってくるやつ」 「多いんですか、そういうの」 「毎年、束に何枚かは。訪問しないで出す人もいるので」 「箱に入れた記録は」 「取ってないですよ、そこまでは。数える箱じゃなくて、入れる箱だから」
同僚の説明に、皆見は頷いただけで打鍵を続けた。回収箱経由の票は、誰がどの家に配ったか記録が残らない。数年前から始まった仕組みだが、皆見はこれまで意識したことがなかった。
昼までの束は四十二枚を処理した。その中で未然欄に何か書かれていたのは五枚。すべて短文で、照合にも引っかからなかった。皆見にとって、今日はいつも通りの日になるはずだった。
昼休み、皆見は事務所の隅の休憩スペースでコンビニのパンを食べた。雨で外に出る職員は少なく、机は空いていた。同僚の女性職員が向かいに座り、午前の件数を確認し合った。
「皆見さん、いつも通り丁寧ですね」 「規則ですので」 「その返事、聞き飽きました」
皆見は答えず、パンの袋を畳んだ。窓に当たる雨音が少し強くなっていた。
「明日、晴れるらしいですよ。予報で言ってました」 「明日は現地に戻るんですか」 「係長次第でしょうね。件数、思ったより溜まってるみたいだし」
同僚はペットボトルの蓋を閉め直し、伝票の隅に午前の合計を書き足した。皆見は自分の分の合計を確かめ、午後の束を引き寄せた。まだ二十枚以上残っていた。
午後の作業が再開して一時間ほど経ったころ、束の中ほどに一枚、様子の違う票があった。受理番号一二〇八番。皆見の担当区域で使われる番号の並びではなかった。用紙の右上の担当者欄が空白のまま処理に回されていた。回収箱経由の一枚だろうと、皆見は最初はそう思った。
世帯主氏名の欄も、空白だった。他の記入項目――世帯人数、住居の種類、就業状況――は、几帳面な字ですべて埋まっている。名前の欄だけが、意図したように白かった。
皆見は票を裏返した。郵送用の消印はなく、折り目も一度もつけられていないようにまっすぐだった。紙質はこの区域で配布している様式と同じで、偽造や流用を疑う理由はない。表に戻し、皆見は氏名欄の周囲をもう一度見た。枠の外にも中にも、書きかけて消した跡はなかった。最初から、そこだけを空けて書かれた紙だった。沢渡ハルの家で聞いた台詞が、ふと頭をよぎった。検討します。二十年その返事をしてそうな顔ね。皆見は首を振ってその記憶を追い払い、キーボードに指を戻した。
皆見は受理番号を打ち込み、氏名欄を空欄のまま送った。画面に赤い文字が出た。「氏名情報を確認できません。住所を入力してください」。皆見は住所欄の文字をそのまま打ち込んだ。仲根町三丁目十七番地。エンターキーを押す。
画面の処理が止まった。数秒待つと、別の赤い文字が出た。「該当する地番が見つかりません」
皆見はもう一度、住所を打ち直した。番地の一文字ずつを票と見比べた。枝番の有無も試した。町名の読みを変えて検索し直した。結果はすべて同じだった。地図検索の画面も別に開き、仲根町の周辺を表示させてみたが、三丁目までしか表示されず、十七番地の位置に該当する区画は見当たらなかった。端末は次の入力を受け付けず、画面の左上でカーソルだけが点滅を続けた。処理待ちの束が、そこで滞った。
「どうしました」 「住所照合、通らないんです」 「よくあるやつでしょ、番地の書き間違い」 「番地の書き間違いなら、直せば通ります。これは、地番自体がないと出ます」
同僚は自分の端末から手を伸ばし、皆見の画面を覗き込んだ。エラーメッセージを二度読み、首を傾げた。
「保留にして、次いっていいと思いますよ。今日の目標件数もあるし」 「そうします」
係長が通路を通りかかり、足を止めた。トレイの中身を数えるように一瞥する。
「入力、順調?」 「一件、止まってます。住所照合エラーです」 「あとで見とく。今日は件数優先で」 「わかりました」
係長は伝票の束を抱え直し、隣の島へ移っていった。学生アルバイトの一人が、係長の背に向かって「保留のスタンプ、どこですか」と聞いている声が遠くで聞こえた。皆見は自分の分の保留のスタンプを取り、票の右上に押した。朱肉の匂いが指先に残った。作業を再開しようとして、皆見は手を止めた。氏名欄の空白の下、未然欄の枠に目が行った。他の票と違い、その枠の中は罫線の際まで文字で埋まっていた。読むほどの時間はなかった。読まなくても、量だけで違いが分かった。皆見はもう一度だけ受理番号を確かめてから、票を保留トレイに移した。
作業は夕方まで続いた。今日の合計は八十六枚、そのうち保留は一枚だけだった。係長はトレイを一瞥し、明日に回すと言って隣の島の集計に戻った。同僚は「珍しいですね、皆見さんが保留出すの」と言い、皆見は「珍しいですね」とだけ返した。
雨は帰る頃には小降りになっていた。皆見は自転車を押して歩いた。水たまりを避けながら進む道は、いつもより遠く感じた。神社の前を通ると、昨日吊るされたばかりの提灯が雨に濡れて色を沈ませていた。尾崎電器店の前を通ったが、シャッターはすでに半分閉まっていて、店内の灯りだけが漏れていた。今日は寄らずに通り過ぎた。アパートに着くと、玄関先で傘をたたみ、水滴を落としてから中に入った。
米を研ぎ、味噌汁の出汁を取る間、皆見は保留のスタンプの朱肉の匂いをまだ指の腹に感じていた。台所のラジオは点けなかった。天気予報を聞かなくても、明日は晴れることを皆見はもう知っていた。
夕食を終え、洗い物を済ませてから、皆見は引き出しの取っ手に指をかけた。三枚の調査票――他人には見せない、自分の未然欄――は今日も出さなかった。指を離す前に、皆見の頭に残っていたのは、住所照合を弾いた赤い文字ではなく、罫線の際まで埋まっていたあの枠の上、記入者を示すはずの場所にあった、空白の一つの欄。
チェーホフ台帳(本章分) 仕込み: #1 未然欄の異常な調査票そのもの — 本章で計画通り仕込み完了(受理番号一二〇八番、記入者不明・住所照合エラーとして発見。内容は未読のまま保留トレイへ)。回収は第13章(正体判明)・第24章(完全回収)の予定通り。