『未然欄』第2章

十月三日、木曜日。皆見稔は担当区域の北側五軒を回り終え、自転車の前籠に空になった調査票の束を戻した。空は薄い水色で、電線に赤とんぼが三匹並んで止まっていた。予定より四十分早い。皆見は自転車の向きを変え、尾崎電器店へ寄る道を選んだ。先週壊れた自室の電球のソケットを、見てもらう約束をしていた。

朝一番に回った受理番号三三四番は、皆見と同い年くらいの夫婦の家だった。玄関先に出てきた夫は「毎年同じこと聞かれますね」と笑い、未然欄には「特に」とだけ書いた。三三五番は縁側で洗濯物を畳んでいた老女の家で、皆見が最後の設問を読み上げると、老女は「そんな欄、去年もあったかしら」と首を傾げ、結局空欄のまま調査票を返した。三三六番は「なし」、三三七番は記入者が留守で不在票を残した。誰も彼もが、いつも通りだった。皆見はその平坦さに慣れていて、慣れていることに疑問を持たない自分にも慣れていた。

店先には型落ちのテレビが五台、値札を貼られて並んでいた。尾崎渉はしゃがみ込んで、古い炊飯器の裏蓋を外していた。皆見の自転車の音に気づき、顔を上げずに片手を上げる。

「ソケット、持ってきたか」 「これ」 「見せて」

皆見は鞄からビニール袋に入れたソケットを取り出し、尾崎に渡した。尾崎は炊飯器を脇に置き、ソケットを蛍光灯にかざして裏返した。

「配線、齧られてるな。ネズミか、それとも経年か」 「築何年か知らない」 「知らないアパートに三年も住んでんのか、お前」

尾崎は笑いながら工具箱を引き寄せ、新しいソケットを二つ、棚から取ってきた。値段の違う二種類だった。

「安い方でいい」 「安い方、二年でまた同じ症状出るぞ。高い方、千二百円」 「じゃあ高い方」 「即決だな。仕事の方はそういうふうに決めてんのか」 「仕事は決めない方が多い」

尾崎は工具箱から圧着ペンチを出し、店の奥のカウンターに皆見を座らせた。作業をしながら話す癖は、子どもの頃から変わっていない。皆見はカウンターの丸椅子に腰を下ろし、ガラスケースの中の乾電池の値札を眺めた。

そこへ客が一人入ってきた。近所に住む老人で、扇風機の羽根が回らなくなったと言って持ち込んできた。尾崎は炊飯器の作業を中断し、扇風機のカバーを外して埃を吹き払い、モーターの軸に油を差した。老人は「もう十五年使ってる」と言い、尾崎は「あと五年はいけますよ」と請け合った。老人が礼を言って帰ると、尾崎はまたソケットの作業に戻った。皆見はその一連のやり取りを、特に感想もなく眺めていた。この店に来るたび、似た場面に出くわす。値札の貼り方も、工具箱の中身の並びも、十年前から変わっていない。

「今年の調査、進み具合どう」 「予定通り」 「毎年同じこと言うな、お前」 「予定通りだから、そう言う」

尾崎はペンチの先でソケットの被膜を剥きながら、店の奥のラジオの周波数を合わせ直した。天気予報が流れ、明日は曇り時々雨だと告げていた。ラジオの音量を尾崎は少し下げた。

「そういえばさ」 「なに」 「うちの親父の遺品整理してたら、高校んときの合唱コンクールの写真出てきた。お前、指揮者だったろ」 「学級委員が指揮するって決まりだった」 「お前、あの後も音楽続けてたら、どうなってたのかなって、たまに思うんだよな」

皆見は乾電池の値札から目を離さなかった。尾崎はソケットの被膜を剥き終え、銅線をペンチで挟み直した。

「音楽学校、受けてたらどうなってたかな。……って、俺が言うと軽く聞こえるか」 「別に」 「別にって顔じゃねえけど」 「顔の話はしてない」

尾崎はソケットの組み立てに戻り、ペンチを二度、三度と握った。皆見はガラスケースの中の電池の並びを数え始めた。単三、単四、単一。個数を数え終わると、また数え直した。

「まあ、俺は店継いだこと、後悔なんかしてねえよ。……多分」 「多分、要らない」 「要るんだよ、その多分が。ないと嘘くさいだろ」

皆見は答えず、乾電池のパッケージに印刷された使用推奨期限を読んだ。西暦の数字だけが目に入り、意味は入ってこなかった。尾崎はソケットを組み上げ、蛍光灯にはめて点灯を確かめた。灯りは一度瞬き、それから安定して点いた。

「はい、直った。千二百円」 「ありがとう」 「今度もっとゆっくり来いよ。飯でも食ってけ」 「今日は残り、まだ六軒ある」 「相変わらずだな、お前」

皆見は財布から千二百円を出し、レジ横のトレイに置いた。尾崎はそれを受け取らず、代わりにソケットをもう一度紙袋に入れて皆見に渡した。

「金はいい。ネズミに齧られたのはうちのせいじゃないけど、まあ、いい」 「受け取って」 「じゃあ半分」 「全額」 「お前、細かいとこだけ頑固だよな」

結局、尾崎は六百円だけ受け取り、残りをトレイに戻した。皆見はそれ以上言わず、紙袋を鞄にしまった。自転車にまたがる前、皆見は店先の古いテレビの値札をもう一度見た。二千円、動作未確認、の但し書きがあった。

「じゃあ、また」 「おう。今度、写真持ってくるから見ろよ、指揮者の頃の」 「見なくてもいい」 「見ろって」

皆見は自転車を押し出し、道の先へ向かった。ペダルを漕ぎながら、指揮棒の代わりに使っていた、担任から借りた白い定規のことを思い出した。あの定規は最後の練習の日に折れて、副委員長が職員室からセロハンテープを持ってきて継いだ。継いだ跡は、本番の日も指の間で少しざらついていた。あの日、体育館の入り口で尾崎が自転車の荷台を叩いて「乗れよ」と言った。雨上がりで、荷台は濡れていた。あの荷台に乗って向かった先が音楽学校の説明会だったことを、尾崎はもう覚えていないらしい。皆見は覚えていた。説明会の帰り、母に何と言おうか考えながら、荷台の上で終始無言だったことも覚えていた。

担当区域の次の丸まで、自転車で七分。皆見は交差点の信号が変わるのを待ちながら、鞄の中の紙袋の重みだけを意識していた。

途中、神社の前を通りかかると、氏子の男たちが秋祭りの提灯を軒先に吊るしている最中だった。去年と同じ紅白の提灯、去年と同じ結び方。皆見は自転車を降りずに会釈だけして通り過ぎた。祭りは来週の日曜日、毎年変わらない日取りだった。

午後の受理番号三三八番は、皆見の元同級生の実家だった。応対に出た母親は皆見の顔を見て「稔くん、大きくなって」と昔と同じことを言い、居間から聞こえるテレビの音量を少し下げてから、未然欄の設問を聞き返した。「わからない」と書かれた欄を、皆見は目を細めて確かめた。三三九番、三四〇番は空欄。三四一番は独居の男性で、玄関先で世間話を長く続け、未然欄には何も書かなかった代わりに、庭の柿が今年は不作だという話を十分続けた。皆見は相槌を打ちながら、時計を見ずに話が終わるのを待った。柿の木の下には、収穫できなかった実がいくつも落ちていた。帰り際、老人は「持ってけ」と言って、拾った柿を三個、皆見の自転車の籠に入れた。渋の抜けていない柿だと分かっていたが、皆見は断らずに受け取った。

夕方、担当区域を回り終えて仮設事務所に戻ると、係長が今日の分の調査票を受け取りながら、特に何も言わずにトレイへ重ねた。今日は未然欄を書き込んだ世帯はゼロだった。皆見はそのことに、特に何の感想も持たなかった。同僚の女性職員が「今日は静かでしたね」と声をかけ、皆見は「そうですね」とだけ返した。

自転車の籠に残った柿三個を、皆見は事務所の給湯室に置いていくか迷い、結局そのまま持ち帰ることにした。渋柿は焼酎に漬けて渋を抜けば食べられると、去年、同僚から教わったことがあった。試したことは一度もない。

アパートに帰り、皆見は真っ先に自室の蛍光灯のソケットを取り替えた。脚立に乗り、古いソケットを外して新しいものに差し替える。灯りが点くのを確認してから脚立を降り、紙袋を丸めて屑籠に入れた。

米を研ぎ、味噌汁の出汁を取りながら、皆見は台所のラジオを点けた。尾崎の店で聞いたのと同じ天気予報が、少し違うアナウンサーの声で繰り返された。明日は曇り時々雨。傘立てに折り畳み傘があったかどうか、皆見は思い出せなかった。炊飯器の蓋を閉め、テーブルに調査票の予備用紙の束――提出しない自分専用の一枚を挟む束――を並べる代わりに、皆見はその束を今日は引き出しから出さなかった。出す日と出さない日の基準を、皆見自身も説明できたことがない。

夕食を終え、洗い物を済ませてから、皆見は窓辺に立って外を見た。尾崎電器店の看板の灯りが、この距離からでも小さく見えるはずだったが、今夜はビルの陰になって見えなかった。皆見はカーテンを閉め、部屋の灯りを一段落とした。

寝る前、皆見は引き出しの取っ手に指をかけたまま、開けずに手を離した。三枚の調査票には触れず、明日の担当区域の地図を鞄から出して確認する作業に戻った。指先にまだ残っていたのは、荷台の水滴の冷たさと、セロハンテープで継いだ、白い定規のざらついた継ぎ目。


チェーホフ台帳(本章分) 仕込み: #4 尾崎との「音楽学校」の軽口 — 本章で計画通り仕込み完了(尾崎の軽口/皆見の回避/雨上がりの荷台の記憶)。回収は第16章・第23章の予定通り。