『未然欄』第1章
十月一日、国勢調査の基準日。皆見稔は午前七時に区の仮設事務所で調査員証を受け取り、担当区域の地図に赤鉛筆で丸を十四個つけた。丸の一つずつが、今日訪ねる世帯だった。空は薄曇りで、電柱の陰にまだ夏の蝉の死骸が転がっていた。稲刈りの済んだ田の匂いが、風向きが変わるたびに事務所の窓まで届いた。皆見は自転車の籠に調査票の束を積み、最初の丸へ向かった。今年で非常勤調査員としては四期目になる。制服はなく、腕章だけが職務を示していた。
担当区域は皆見が育った町の南半分だった。回るたび、知った顔に当たることもある。今年の割り振りが決まったとき、皆見は区域を変えてほしいとは言わなかった。知った町を回る方が、勝手が分かる分、仕事は早い。それだけの理由だと、皆見は係長に説明していた。
受理番号三二九番、木下方は不在だった。ポストに投函用の封筒を入れ、皆見は次へ進んだ。受理番号三三〇番、単身の男性は玄関先で立ったまま五分で全問に答え、最後の設問だけ「面倒なんで」と言って空欄にした。皆見はそれ以上勧めなかった。任意の設問だと、規則にそう書いてある。三軒続けて似たような対応が続き、皆見はいつもの速度で仕事をこなしていた。
受理番号三三一番、沢渡ハル方。皆見はインターホンを押し、応答までに二十秒待った。ドアが開くと、玄関先に線香の匂いがした。
「調査員の皆見です。国勢調査のご協力をお願いにあがりました」 「ああ、はいはい。去年もいらしたかしらね」 「今年が初回です。五年に一度ですので」
沢渡ハルは八十二歳と申告書にあった。廊下の奥から呼び鈴の音より先に猫が出てきて、皆見の靴の匂いを嗅いだ。ハルは「上がってお茶でも」と言ったが、皆見は上がり框に腰を下ろすだけにとどめ、丁重に断った。調査票の束を膝の上で整える。世帯人数、住居の種類、就業状況。ハルは一問ごとに考え込み、皆見はそのたび一拍置いてから次の質問に移った。急かすと黙る回答者がいることを、皆見はこの仕事で学んでいた。猫は皆見の膝の横で丸くなった。
「これ、何。最後のこの欄」 「第五号様式の追加設問です。今年から試験導入されました」 「あなたが選ばなかった人生を一つ、お書きください、ですって」
ハルは老眼鏡を額に押し上げて、皆見の顔をまっすぐ見た。皆見はいつも通りの答えを用意していた。
「統計局の説明では、選択と生活満足度の相関を調べる調査項目です。回答は任意です」 「任意ってことは、書かなくていいの」 「はい」 「じゃあ、あなたはどう書くの、いつも」 「私は業務で回るだけですので、私自身の調査票はまた別の職員が扱います」 「そうじゃなくて。あなたが書くとしたら、って聞いてるの」
皆見は鞄の持ち手を握り直した。この問い返しは、五日間で四回目だった。設問の意味がつかめないとき、人は目の前の人間の答えを借りようとする。皆見はいつも同じ返し方をしていた。
「特になし、で提出お願いします」 「あなたも、そう書くの」 「聞かれたことには答えます。聞かれてないことは、こちらから言いません」
ハルは笑って、ボールペンの尻を歯に軽く当てた。それから未然欄の枠に、ゆっくりと文字を書き始めた。皆見は待った。書き終えるまでに三分近くかかった。ペン先が紙に触れる音だけが、しばらく玄関先に続いた。ハルは調査票を返しながら、枠の中の文字を隠さなかった。
「息子を医者にしなかった人生。うちは三代続けて農家でね、上の子だけ医学部に行かせるお金があった。でも、下の子が拗ねるのが嫌で、結局どっちも行かせなかった」 「拝見します」 「後悔してるわけじゃないのよ。ただ、書く欄があったから、書いただけ」 「下のお子さんは、今」 「隣町でクリーニング屋。繁盛してるわよ。医者になった人生の方が幸せだったかは、誰にも分からない。でも、書かなかった方の話を、誰かに一度は聞いてほしかったの」 「聞きました」 「そうね。聞いてもらった」
皆見は調査票をファイルに挟み、礼を言って腰を上げた。猫が膝から滑り落ち、廊下の奥へ戻っていった。玄関を出るとき、ハルがもう一度呼び止めた。
「調査員さんも、いつか書きなさいよ。特になし、じゃなくて」 「検討します」 「検討、ね。二十年その返事をしてそうな顔ね」
皆見は答えず、一礼して門を出た。担当区域には、あと十一軒残っていた。
正午、皆見は公園のベンチでコンビニのおにぎりを食べた。午前中の五軒のうち、未然欄を空欄にしたのが四軒、ハルのように書き込んだのが一軒。この比率は例年とそう変わらない。皆見は毎回、書き込む一軒に当たるたび、鞄の底の予備の調査票のことを思い出す。この仕事を始めてから、毎回同じ問いに同じ答えを書いてきたことになる。
午後最初の一軒、受理番号三三二番は小さな子ども二人がいる家庭で、母親が子どもを叱りながら早口で答えていった。未然欄には「考える時間がない」と書かれた。皆見はその字を見て、それも一つの回答だと思った。回答者の中で立ち止まる者は少ない。立ち止まる者は、たいてい沢渡ハルのように、聞かれてもいないことまで話し始める。
その後に回った三軒は、いずれも空欄だった。皆見は空欄を見るたびに、何も感じずにチェック欄へ印をつけた。何年もこの仕事をしていて、空欄そのものに驚くことはもうない。驚くのは、書き込まれている方だった。空欄の多さは、この設問が定着しなかった証でもあり、同時に、誰にも咎められずに済む逃げ場でもあった。
自転車の鍵を外しながら、皆見は鞄の中から予備の調査票を一枚取り出した。職員向けの見本用紙で、提出の義務はない。だが皆見は毎年、自分の分だけ先に書いてから区域を回る癖があった。サドルに座ったまま、ボールペンを構え、未然欄の枠を見つめる。
十七歳のときのことは、書こうとすれば書ける分量がある。音楽学校の願書、母の声、尾崎の自転車の荷台に乗って駅まで行った雨上がりの道。だが皆見の手は、いつもと同じ動きをした。二文字を書き、ペンを離す。特になし。書いた紙を鞄の底に押し込み、皆見は次の受理番号を確認した。三三三番、尾崎電器店の裏手にあたる住所だった。
自転車を進めると、電器店の前を通りかかった。尾崎渉が店先で古いテレビの梱包を解いていて、皆見に気づくと片手を上げた。皆見も片手を上げ返しただけで、通り過ぎた。立ち止まって話す時間は、今日はなかった。
夕方、区域を回り終えて仮設事務所に戻ると、係長が調査票の束を受け取りながら顔をしかめた。
「皆見さん、これ何。受理番号三三一、未然欄が長すぎて集計フォームに収まらないって」 「回答者の意思ですので、そのまま提出してください」 「入力の人が困るんだよなあ、こういうの。毎年、何件かはこの調子だ」 「困っても、削るわけにはいきません」
係長は肩をすくめて調査票を仕分けトレイに置いた。隣の机で入力作業をしていた同僚の女性職員が、伝票の束越しに声をかけてきた。
「皆見さん、今年もその欄、丁寧に回収してますね」 「規則ですので」 「規則じゃなくてもやってそうですけど」 「そうでしょうか」 「去年もそうでしたよ。空欄の方が入力は楽なのに、皆見さんの担当区域だけ、埋まってる欄が多い気がします」 「回答者の顔ぶれの問題です」 「そういうことにしときますね」
同僚は笑って自分の作業に戻った。皆見はその隣に自分の予備の調査票を並べようとして、手を止めた。これは提出しない。毎年そうしてきた。皆見は予備の調査票だけを鞄に戻し、他の書類だけをトレイに重ねた。
トレイの一番上で、沢渡ハルの調査票の、未然欄からはみ出した文字が、事務所の蛍光灯の下で少しだけ光って見えた。皆見は自転車を押して帰路についた。日はすでに落ちて、街灯が一つずつ点いていく時間だった。
アパートに着くと、皆見は玄関先で靴を脱ぐ前に、鞄の底から予備の調査票を取り出し、いつもの引き出しにしまった。引き出しには、これまでの分がすでに三枚重なっている。四期分、四枚のはずが三枚しかないのは、一期目の一枚をどこかでなくしたからだった。皆見はその一枚のことを、毎年しまうたびに思い出し、思い出すたびに忘れることにしていた。玄関の明かりを消し忘れたまま、皆見はしばらく引き出しの前に立っていた。
夕食の支度をしながら、皆見はハルの言葉を思い返した。二十年その返事をしてそうな顔。当たっている、と皆見は思った。二十年前、皆見は十七歳だった。今日という日付には、それ以上の意味を持たせないことに決めている。皆見は米を研ぐ手を止め、引き出しの方を一度だけ振り返った。四枚のうち、まだ折り目のついていない、今日の一枚。
チェーホフ台帳(本章分) 仕込み: #8 皆見自身の未然欄(「特になし」の反復) — 本章で計画通り仕込み完了。回収は第24章の予定通り。